家は味方

ADHD親子の、片付けられる家。

【ベトナム旅記 第3回】竹の錬金術「お行儀の悪い反逆」を日常に実装する

スプーン一本の脱獄と、まなざしをひっくり返す知性

サイゴンの夜。

フランス人が権威の象徴として建てた「オペラハウス」に、私はいました。

そこで観たのは、豪華なシャンデリアとは対極にある、素朴な「竹」を使ったアオショー(À Ố Show)でした。

絶望を「資源」に作り替える凄み

ベトナムの歴史は、凄まじい「転用」の歴史です。

食べるためのスプーンで120メートルの脱獄トンネルを掘る。

竹を槍に変え、今はそれを芸術に変えて世界を魅了する。

そして、私が「天才!」と唸ったのが、廃タイヤから作られた「ホーチミンサンダル」です。

彼らは、自分たちを焼き払おうと落とされた爆弾や、敵軍のトラックの廃タイヤを拾い集め、屈強なサンダルへと作り替えました。

このサンダルの凄さは、単に丈夫なだけではありません。

なんと「前後を逆に履く(あるいはソールを逆につける)」ことで、追跡してくる敵に自分たちの進んでいる方向を完全に見失わせたのです。

 

「敵の落とし物」で歩き、「敵の目(常識)」を欺く。

「あるもの」だけで生き抜き、状況をひっくり返してやる。

その知性は、モノに依存し、モノがなければ不安で仕方ない私たちの価値観を、根底から揺さぶります。

そしてそんな「お行儀の悪い知性」を目の当たりにしたとき、私はふと、5年前に建てた自分の家のことを思い出して、深い場所でガチッと握手したような気持ちになりました。

 

5年前、私が自宅に仕掛けた「ひっそりとした反逆」

実は、私の自宅は5年前に、ある確信を持って設計されました。

それは、私が大学時代仏文学や美術史を学ぶ中で心に刻んできた、先人たちの「美しい反逆」の記憶です。

 

伝統的な構図の中にしれっと娼婦を描き込み、こちらを射抜くような強いまなざしで「見る側」を動揺させたマネの『オランピア』。あるいは、王様や神様しか許されなかった大画面に、泥にまみれた農民の姿を叩きつけたミレー。

そして、作家コレット。工藤庸子氏がその著書で解き明かしたように、コレットはそれまでの恋愛小説の「お決まり」を鮮やかに逆転させました。

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それまで、主導権を持って「ながめる」のは常に男性であり、恋に破れて死ぬのは常に女性側でした。

しかしコレットは、女性を「主体的にまなざす側」へと引き上げ、女性が悲恋で死ぬという家父長制的な結末をも拒絶したのです。

そんな「まなざしをひっくり返す知性」に触発された私は、家づくりの際、世間が押し付ける「理想の主婦像」という檻をそっと解体することにしたのです。

 

「炎上」から自分を救い出す、スプーン一本の脱獄

とはいえ、私の反逆には、格調高い理由の裏にもう一つ、「あまりに切実な生存戦略」がありました。

私の家のキッチンには、コンロがありません。

ADHDという特性を持つ私にとって、3つのコンロに同時に火をつけるなんて、パニックの引き金でしかありませんでした。

慌てるか、忘れるかして、文字通り「炎上」するのが目に見えていたからです。それに、調理台が広くないと、モノとモノの間に十分な「スペース」がないと、私の脳内では全部が背景化してしまい、何がどこにあるのか認識できなくなってしまう。

だから、私は「もてなす母」というステージセットを壊しました。
私よりもずっと正確に、ずっと美味しく料理してくれる「調理家電」に主役の座を明け渡したのです。

我が家のキッチンの主役は、私(主婦)ではなく、調理家電なのです。

調理家電×2+電子レンジ2台置けるように設計

どうか面白がってくださいな。これこそが私の「スプーン一本の脱獄」でした。

自分を孤独な奉仕者に縛り付けるカウンターキッチンを拒絶し、自分たちが呼吸しやすいようにシステムを組み替える。

誰かに与えられた「正解」を捨てて、自分たちの自由を自力で掘り当てる。

 

答え合わせとしての「竹のショー」

ベトナムで、竹一本をしなやかに操り、重苦しい歴史さえもエンターテインメントとして笑い飛ばす若者たちを観たとき、私は確信しました。

「ああ、私のあの『お行儀の悪いキッチン』も、この竹のしなやかさと同じだったのかも」と。

不自由さを嘆くよりも、今あるものを使い切り、主導権を自分たちの手に取り戻す。

その図太くも賢い姿は、私が名画や文学の中に憧れてきた「美しい反逆」そのものでした。

 

🔗 【私の「小さな革命」の実録はこちら】
家電を主役にして、母の自由を奪還した間取りの記録です。

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執着を手放し、「今」を遊び尽くす

お片付けとは、単にモノを捨てることではありません。

「これがないと幸せになれない」「普通の家はこうあるべきだ」という、外部から植え付けられた執着(檻)を、ユーモアで吹き飛ばす作業です。

過去の失敗を重荷にするのではなく、「ま、これからはマシンに任せて遊んじゃおう」という知恵の種に変えていく。

家の中に溢れる「いつか使うかもしれないモノ」という呪縛を捨て、今、目の前にある一本の竹をどう愛でるか。

その「身軽さ」を手に入れたとき、家はあなたを縛る箱ではなく、人生という名の舞台を共に楽しむ最強の「道具」に変わるのです。

 

最終回は、この旅の結論。
欲望の街サイゴンの真ん中で、彼らが見せてくれた、究極の「余白」について。

 

参考文献 & インスピレーションの源
【ベトナムの反逆の知性】

À Ố Show (Lune Production): サイゴン・オペラハウスで上演される、竹を使ったアクロバティックな舞台。伝統と現代の「転用」を体現した圧巻のパフォーマンス。

ホーチミンサンダル(Binh Tay Sandals): 戦時中、廃タイヤから手作りされた「ビンタイ・サンダル」。足跡を逆につけることで追っ手を惑わせたエピソードは、今もなおベトナム人の強かな誇りとして語り継がれています。

クチの地下トンネル(Củ Chi Tunnels): 全長250kmに及ぶ抵抗の拠点。極限状態での「構造の力」を象徴する場所。

 

【まなざしをひっくり返した先人たち】

工藤庸子『フランス恋愛小説論―中世から現代まで』(岩波新書): 恋愛という枠組みの中で、女性がいかに「まなざす主体」へと変容し、従来の悲劇的結末(死)を乗り越えていったか。コレットをはじめとする作家たちの「逆転劇」を鮮やかに論じた一冊。

エドゥアール・マネ『オランピア』(1863): 西洋美術史における「見られる側」から「見る側」への主権交代。伝統をハックし、スキャンダルを革命に変えた名画。

ジャン=フランソワ・ミレー『落穂拾い』(1857): 宗教画のような重厚な構図で、名もなき貧しい農民を描ききった「視点の民主化」。

シドニー=ガブリエル・コレット: 20世紀初頭のフランスで、女性の自立と性の解放を、その鋭い筆致と生き方で示した作家。悲恋で死ぬのが男性だというのが新しかった。