家は武器

ADHD親子の、片付けられる家。

なぜ人はモノを集めるのか ― 欲望・喪失・時間をめぐる3つの欲求

※この記事は海外エッセイの内容を引用し、私自身の考察を加えたものです。

なぜ私たちはモノを集め、手放せないのか

アメリカのエッセイ Why do we collect things?(Elsie Morales, 2025)を読んで、「なぜ私たちはモノを集め、手放せないのか」という問いが心に残りました。

ジョセフ・コーネル、ピーター・ブレイク、ウラジーミル・ナボコフ――いずれも20世紀を代表する芸術家たちは、作品づくりと同じくらい「集めること」に情熱を注いでいました。
彼らのコレクションをたどると、モノを集める行為は、単なる趣味ではなく「生きるための表現」であることが見えてきます。

 

欲望・喪失・時間をめぐる3つの欲求

モラレスは、そこに3つの欲求があると言います。
それは「欲望と郷愁」「保存と喪失」「時間への抵抗」。
私たちがモノを取っておく理由は、この3つのどこかに通じているのかもしれません。

 

① 欲望と郷愁 ― 失われた瞬間をもう一度感じたい

これは「感情を守る」ための収集。
旅先で拾った貝殻、誰かにもらった手紙、香りの残るスカーフ…。
それを見ると、当時の光や風、誰かの声がよみがえります。

ジョセフ・コーネルの箱作品には、そうした郷愁が閉じ込められています。
彼は安価なガラス瓶や古い紙片を集め、知らない街の夢のような風景をつくり上げました。
彼にとって集めることは、「行けなかった世界を感じるための祈り」でもあったのかもしれません。

「欲望と郷愁」の収集は、過去に向かう動きです。
それは思い出に触れることで自分の輪郭を確かめる行為。
見える場所に少しだけ残して、時々心をあたためる。
そんな“演出としての保存”が、心を満たしてくれます。

 

② 保存と喪失 ― 消えゆくものを留めておきたい

こちらは「記録を守る」ための収集。
子どもの作品、家族の写真、亡くなった人の手紙――時間とともに消えていくものを、形として留めておきたい。
それは忘却に抗う静かな抵抗です。

ピーター・ブレイクは、戦争によって奪われた幼少期の記憶を埋めるように、
捨てられそうな玩具や模型船を拾い集めました。
誰も見向きもしないものを守り続けることが、彼にとっては“失われた時間”を取り戻す儀式だったのかもしれません。

「保存と喪失」の収集は、現在に向かう動きです。
残すことで安心し、今この瞬間の自分を支える。
整理のときは、アルバムやデータ化など“記録の仕組み”をつくることで満たされます。

 

③ 時間への抵抗 ― 「ここに私はいた」と刻みたい

3つめは「存在を守る」ための収集です。
これは未来への手紙のような行為。

作家のナボコフは、生涯で4千匹以上の蝶を採集しました。
亡命を繰り返しながらも、彼が蝶を集め続けたのは、
どんな境遇にあっても“自分が感じた世界の美しさ”を形に残したかったから。
彼の標本は今も大学の博物館で保存され、彼が生きた証として光を放っています。

「時間への抵抗」の収集は、未来に向かう動き。
自分の経験や思考を「作品」「記録」「軌跡」に変えて残すことで、
“私は確かにここにいた”という静かな証を刻みます。
それは遺すためではなく、生きているあいだに自分を確かめる方法でもあります。

 

取っておく目的がわかると、片づけが優しくなる

大量のモノに囲まれていると、私たちはつい「減らさなきゃ」と焦ってしまいます。
でも、その前に一度だけ立ち止まって、こう問いかけてみてください。

「私は何を守りたくて、これを取っておいたんだろう?」

それが「気持ち」なのか、「記録」なのか、「存在」なのか。
目的がわかれば、“どのくらい残すか”“どう残すか”の答えは自然と出てきます。

片づけとは、モノを減らす作業ではなく、
「自分の時間と想いを、どんな形で生かしていくか」を選び直すこと。

モノの整理は、記憶の整理。
それは、自分という人間の“続き”をどう紡ぐかを考える静かな時間なのだと思います。

片づけに活かす3つの視点

この3つの欲求――「欲望と郷愁」「保存と喪失」「時間への抵抗」――は、
持ち物を見直すときの“羅針盤”にもなります。

もし家にモノがたくさん溜まってしまっているなら、
まずは「減らす」よりも、なぜそれを残したかったのかを感じ取ってみてください。

  • 欲望と郷愁タイプ:心が動く“象徴的なひとつ”を残して飾る。
     → それを見るだけで気持ちが満たされるなら、もう十分。
  • 保存と喪失タイプ:アルバムやデータ化で「見えなくても安心できる形」にまとめる。
     → 思い出を“守る仕組み”ができれば、モノは減っても不安は減らない。
  • 時間への抵抗タイプ:作品集・ノート・記録帳のように「自分の軌跡を残す形」に整える。
     → 整理は、あなた自身の物語を未来に渡すこと。

片づけとは、「何を手放すか」ではなく、
「何を残すと、自分の心が静まるか」を見つけるプロセス。

自分が守ってきたものを理解できると、
その人らしい“満たされた持ち方”が、少しずつ見えてきます。

 

📚 原文:Elsie Morales Why do we collect things?
🪶 日本語まとめと考察:清水優佳(ゆかたづけ)

家はあなたじゃない。あなたを助ける“道具”。片づけられない日も、あなたの価値は変わらない。

「部屋が散らかってる=私がダメ」じゃない

部屋がぐちゃぐちゃで、私はダメな人間──
そう感じてしまうこと、ありませんか?

「部屋は自分を映す鏡」なんて言葉もよく聞きますが、
私は少し違うと思っています。
部屋と自分は、イコールではありません。

「家=自分」じゃなくてもいい

家や部屋の状態が心に影響することは、もちろんあります。
けれど、「家=自分」と決めつけてしまうと、
片づけられない=価値のない人間、という思考に陥ってしまう。
それはとても苦しいことです。


「家=自分」はマーケティングでもある

実際、「家=あなた」と言い切るような言葉は、
片づけ業界のマーケティング的な側面もあります。
「片づければ人生が変わる」と言われた方が、
行動を促しやすいからです。
でも、必要以上に自分を責めるようなメッセージなら、
距離を置いてもいいのかもしれません。


もし本当に「家=あなた」だとしたら?
家が泥だらけになったら、あなたの身体も泥だらけになる?
家が壊れたら、あなたも壊れてしまう?
そうではないですよね。
家は家、あなたはあなた。
別の存在です。


家は“道具”であり、“装置”でもある

家は、はさみや包丁のような「道具のひとつ」。
包丁の切れ味が悪くなったら研げばいい。
使いにくいと思ったら、違う形を試してもいい。
自分に合った道具を選んで、ときどきお手入れをする。
ただそれだけでいいんです。

大切なのは、“どんな暮らしをつくりたい”か

大事なのは、
「その道具を使って、どんな暮らしをつくりたいか」。

家は、あなたのやりたいことをサポートしてくれる装置です。
良い習慣や安定した心を育てる“しくみ”でもあります。
選び方・使い方・整え方次第で、
家はあなたを助けてくれる存在になります。

 

整えることは、責めることじゃなく“自分を知る旅”

まだ「自分に合った使い方」が見つかっていないなら、
それはここからがスタートということ。
いつからでも、やり直せます。
家を整えることは、自分を責めることではなく、
自分を知っていく旅のようなものです。

 

今日も、この家という味方と一緒に

あなたに合う住まいの形を見つけられたとき、
家はただの道具を超えて、
あなたを支え、癒し、励ましてくれる“武器”になります。

今日も、この家という味方と一緒に。
ゆっくり、暮らしをととのえていきましょう。



自分なりの“十分”を見つける方法|頑張りすぎない暮らしへ

先日、花村久美子さんの『「がんばる」だけじゃない暮らし方: やりたいことに打ち込める日々を実現するしくみ』

を読みました。

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この本には「頑張りすぎを手放す考え方」や「どこまでやるかを決めるラインの見つけ方」が紹介されていて、とても腑に落ちる内容でした。

読みながら気づいたのは、私は「どこまでやれば十分なのか」を決めないまま過ごしていた、ということです。
だからこそ、日々「足りない」「もっと頑張らなきゃ」と追い込まれてしまっていたのだと思います。

ぐるぐるしていた日々

仕事も家庭も、目標も基準も曖昧なまま、
「もっとやらなきゃ」「十分じゃない」と自分を責めてしまう。
一方で「そんなに頑張れない」と疲れ果ててもいる…

常に何もかも中途半端な気がして、胸を張れずにいました。


見つけた答え:「一人でも十分」

そんな私が立ち止まり、書き出しながら整理してみると、原点はとてもシンプルでした。

  • お客様が一人でも、深く関われたら十分。

  • 子どもに「大好き」と伝えられたら十分。

  • 誰かに優しい声をかけられたら十分。

数字や規模ではなく、「目の前の一人」。
その人がラクになり、笑顔になれたら、それで十分なんだと気づきました。


「十分」を見つける5つのヒント

振り返ってみると、私が「これで十分」と決められたのには理由がありました。

原点を振り返る
なぜ始めたのか?何のためにやりたいのか?
→ 私の場合は「人に優しくありたい」「好きな片付けで誰かの役に立ちたい」という原点でした。

喜びを感じる瞬間を探す
どんなときに一番うれしい?
→ 散らかりで苦しんでいる人が、片付けを通してラクになり、幸せを感じられるようになること。

小さな単位で考える
1年の成果より「今日/1か月」で基準を決めてみる。
→ 「1日=声をかける」「1か月=一人と関わる」と置き換えたら楽になりました。

誰のための基準かを絞る
世間や比較ではなく、「自分」と「目の前の人」のために。

承認欲求を正直に認める
「役に立ちたい」「優しい人と思われたい」という気持ちを否定せず、むしろ原動力にする。


お守りカードにしてみた

言葉にした「十分の基準」を小さなカードにまとめてみました。
迷ったときに見返せる“お守り”です。

  • 思考の迷路から戻ってこられる

  • 自分で線を引いた安心感を思い出せる

  • 余裕を持って家族やお客様に向き合える

そんな効果を実感しています。


まとめ

「十分」は他人が決めるものではなく、自分で決めていいもの。
小さな基準でも、自分が胸を張れる言葉を持つことが、余裕と丁寧さにつながります。

家づくりの目的は、「怒らない」ことでした。

忙しい朝、片付いていない部屋にイライラして、家族に怒鳴ってしまう。

私の家づくりは、そんな「怒らない自分」を取り戻すための、小さな革命でした。

ADHDの診断を受けた私と息子。忘れ物・探し物の連続だった日々を振り返りながら、
“構造の力”で暮らしを整えた軌跡を記します。

 

家は小さな革命の舞台──「良妻賢母」の間取りを、そっと解体するということ

わたしはADHDの診断を受けていて、いわゆる「女子力」や「良妻賢母」的なふるまいがとても苦手です。
けれどそれは、劣っているからでも、努力不足でもなくて──
そもそも「誰か一人がこなす前提の家事」や、「もてなす/もてなされる」の役割分担が、ずっと不自然だったのではないかと感じています。

そんな疑問から、わたしたちは家づくりの際、「怒らなくてもまわる家」を目指しました。
個人の努力ではなく、「構造」によって責任を分かち合える家。
その試みは、今振り返ると、小さな「革命」だったのかもしれません。

 

キッチンに「境界線」を作らない

まず、「もてなす/もてなされる」という関係性を前提としたカウンターキッチンはやめました。
家族が誰でも出入りしやすいように、壁付のキッチンに。
子どもも、夫も、わたしも、みんなが同じ目線で作業できる場所にしました。

食洗機はフロントオープン、食器は引き出し収納で出し入れしやすく、テーブルも調理中の作業台に。
「キッチンは母の領域」という空気を、間取りの力で、そっとほどきたかったのです。

洗濯動線を一か所にまとめる

洗濯についても、「一人で全部やる」から「通りすがりに関わる」へ。

洗濯機と室内干しスペース、乾燥後の服の仕分け・収納をすべて一部屋にまとめました。
お風呂・脱衣所の前に、広めのランドリールーム兼ファミリークローゼットを設置し、
家族が自然と通りかかる場所にあることで、洗濯が「家族全員の作業」に変わりました。

朝、「はいこれ〇〇のー!」と分担して服をたたむ声が響く。
小さなことですが、暮らしにリズムと連帯感が生まれます。

 

個人の収納を「共有空間」に

「自室にしまう」ではなく、「玄関そばのロッカールーム」に全員の持ち物を集約しました。
靴、カバン、上着ティッシュ、オムツ、書類など──すべてオープン収納で見渡しやすく。

「おしり拭きとって!」「はいティッシュ!」
そんなやりとりが、玄関~ダイニングで自然に交わされるようになりました。
家族が家のどこにいても、何かを助け合える。そんな空間を目指しました。

 

家事は「属人化」してはいけない

もしかしたら私たちは、「お母さんが頑張る家」に慣れすぎていたのかもしれません。
だけど、疲れていても、具合が悪くても、毎日完璧に動ける人間なんていません。

だから私は、暮らしを「仕組み」で支えたいと思いました。
怒らなくても回る家。
誰か一人に偏らない家事。
それは、きっと「良妻賢母」からの静かな離脱であり、家族全員が暮らしの主役になるための小さな革命だったのです。

 

🔗詳しくは、実際の間取り・暮らしの工夫を綴ったこちらの記事へ

【家事シェア】フラットな家族関係を作る間取り(2024-01-08)
設計の背景や、家族での洗濯・調理・収納風景を写真つきでご紹介しています。

わたしたちの家づくりの経緯をまとめたこちらの記事もどうぞ
ADHDでも片付けられる家を目指して(2023/08/27)

 

🔗 暮らしの「小さな革命」、動画でもご紹介しています

実際の様子はInstagramのリールでご覧いただけます。

📽️ お父さんと次男でパン作り
📽️ 子どもたち3人で配膳
📽️ ファミリークローゼットで洗濯物をしまう様子

母が頑張るのではなく、家族みんなで関わる暮らし
そんな日常の風景を、リアルな「音」と「動き」で感じていただけたら嬉しいです。

“やらなきゃ…”動けない自分を責めていた頃の私へ。安心が回復の土台だったという話

「やらなきゃと思ってるのに、どうしても動けない」
そんなふうに悩んでいた時期がありました。
頭ではわかっているのに、身体が動かない。周りの期待に応えられない。それをずっと「自分が弱いから」「怠けてるだけ」と責めてきたけれど、
今日、ポリヴェーガル理論を学んで、まったく違う視点に出会いました。神経系の不調、感情の記憶、過覚醒。
それは決して“甘え”ではなく、私たちの身体が必死で守ろうとしている反応かもしれない。「安心から始める」という視点を、今の私として記録しておきたくて書きます。

 

CLOプログラム、きょうの学び。

jalo.jp


脳や神経、そして「安心」というキーワードについて、あらためて深く考える学びの時間になりました。

私たちの脳や神経は、たとえケガや病気がなくても、“痛み”や“不調”を感じることがあるそうです。
その原因には、過去のストレスや感情の記憶、神経系の過覚醒が関係していることもあります。

自分を責めてしまうときに

「やらなきゃと思ってるのに動けない」
「どうして私はできないんだろう」

そんなふうに、自分を責めてしまうとき。
その背景には、“怠け”や“意志の弱さ”では説明できない理由があることを、今回の学びであらためて受け取りました。

実際、神経が誤作動を起こすと、本来は身を守るはずの反応が暴走し、逆に心や身体を傷つけてしまうことがあるそうです。
強いストレスが引き金となる「感情の洪水」は、思考や会話、身体の動きすら難しくなるほどの影響を持ちます。

必要なのは、「安心できるリズム」

そんなときに必要なのは、「もっと頑張ること」ではなく、「安心できるリズム」です。

✅ 少しだけ動いて終えてもいい

✅ 疲れたら途中で止まっても大丈夫

✅ 他人と比べず、自分のペースを大切に

✅ 一人で抱えず、信頼できる誰かとともに

こうした“やさしい土台”があって、はじめて「片づけようかな」と思える余地が生まれるのかもしれません。
支援する立場としても、とても大切にしたい視点です。



わたしの経験から思い出すこと

思い返すと、会社員時代の私はよく「大慌て&フリーズ」状態になっていました。
心臓がバクバクしたり、頭が真っ白になって動けなかったり。
当時はただ「とにかく頑張らなきゃ」と、自分を叱咤してばかりいました。

けれど今思えば、それは慢性的なストレスや疲弊で、脳が“危険”を誤認して体にストップをかけていたのかもしれません。

本当に必要だったのは、神経が誤作動しないように、「自分が安心できる環境やリズム」を整えてあげることだったのだと思います。

「できる(はずの)こと」よりも、「安心できること」から始める。
その方が、ずっと自然だったのかもしれません。

「安心」って、どうやったら感じられる?

とはいえ、「安心していいよ」と言われても、安心できないときってありますよね。

ポリヴェーガル理論(Stephen Porges博士)では、私たちの神経系は大きく3つの状態を行き来していると言われています。

✅ 安全・つながりモード(腹側迷走神経)

✅ 闘争・逃走モード(交感神経)

✅ フリーズ(シャットダウン)モード(背側迷走神経)

 

心と身体が「安心だ」と感じているときにだけ、私たちは本来の力を発揮できます。
思考力、対話力、感情表現、行動の柔軟さ――すべては安心の上に成り立っているんです。

 

安心の条件は、人それぞれ

でも、「安心できる条件」は、きっと人によってまったく違います。

  • 発達障害のある方は、音や光などの刺激が強すぎると安心できなくなることがある

  • トラウマを経験した方は、普通の会話やふれあいさえも警戒を呼び起こすことがある

  • 繊細な方は、人が多いというだけで疲れ果ててしまうこともある

安心は、「こうすれば誰でも安心」という一律の方法ではなく、
その人自身の感覚と、これまでの経験に深く結びついているものだと思います。

 

安心のヒントになるもの

🌿 やわらかい光
🌿 自然な音や空気の流れ
🌿 予測できるスケジュール
🌿 否定されない関係性
🌿 急かされない会話
🌿 肌ざわりのよさ
🌿 比べられないこと
🌿 ひとりの時間
🌿 呼吸の深さ

こうした小さな積み重ねが、「やってみようかな」という一歩につながっていくのだと思います。

 

安心が芽吹く場をつくるということ

安心できる環境が整ってはじめて、神経は回復を始め、変化の芽がゆっくり育っていく。
だから私は、片づけや生活支援の現場でも、「この人にとっての“安心の条件”ってなんだろう?」と問いかけながら関わっていきたいと思っています。

焦らなくていい。比べなくていい。
安心できるところから、一緒に始めていけたら――
そんなふうに感じた一日でした。

片づけが進まないのは、こだわりのせい?完璧主義をゆるめて広がった、ADHD親子の自由な旅と暮らし

ライフオーガナイザーの清水優佳です。
発達障害ADHD)の診断を受けた自分自身、息子と一緒に暮らす中で、たくさんの「片づけ」「旅」「こだわり」に出会ってきました。
今回は、そんな経験から感じた「自分のこだわりを活かしながら自由に生きる」というテーマで書いてみます。

完璧主義・潔癖症だった私

「シンク下は湿気がたまるから何もしまえない」
「洗面所の鏡裏収納、熱が気になるから使えない」
「ホコリが心配で、棚の上にモノは置きたくない」

片づけのご相談を受けていると、こうした“こだわり”にたくさん出会います。
そしてそれは、私にもよくわかる感覚です。

なぜなら私も、以前は完璧主義で潔癖症傾向がありました。
少しでも不快に感じるものを、徹底的に遠ざけたくて。
汚れ、ズレ、湿気、ホコリ、予定外……
「気になる」「不安だ」をひとつずつ潰していくことに、エネルギーを費やしていたのです。

でも、子育てや旅を重ねるうちに、私はこう感じるようになりました。

「気になる」があっても、暮らせるし、楽しめる。

「不快や不安をゼロにする」のではなく、
「ちょっと気になるけど、まあいいか」と思える“幅”があると、
暮らしはぐんとラクになるし、行動範囲も広がっていくのだと。

たとえば片づけサポートの現場では、
「湿気が気になるけど、ステンレス製ならしまえる」
「熱が気になるけど、タオルやティッシュなら入れられる」など、
“こだわりを維持したままの工夫”で、スペースがぐんと有効に使えるようになった例もたくさんあります。

そしてこれは、旅にも通じると感じています。

コンフォートゾーンが広がると、人生の自由度が上がる

我が家は、夫・私・子ども3人、そして犬1匹の大家族です。

旅行が好きで、国内は車中泊を組み合わせながら各地をめぐり、 海外もメキシコ、台湾、シンガポール、オーストラリア、フィンランドベトナム……と、少しずつ経験を重ねています。

ただ、私たちは決して“旅行上手”なわけではありません。

計画を立てるのも得意じゃないし、準備にも抜け漏れが多い。

そして何より、私と長男はADHDの診断を受けていて、部分的に感覚過敏もあり、完璧にやろうとすると苦しくなるタイプです。

それでも今、旅を楽しめているのはなぜか? それは「こだわり」を少しずつ手放してきたからです。

「許せる範囲が広がれば、冒険の幅も広がる」とだんだん腑に落ちていきました。

毎回、格安航空券と宿を組み合わせて、 行きたい気持ちと家計とのバランスを調整しています。
だから時には、経由地で空港の床で寝たり、屋台で虫がちらつく中食事したこともありました。
空港で靴を脱いだり、手作りのごはんをその場で握ってもらったり、 海外製の薬やスキンケアを現地で調達することもあります。

完璧主義・潔癖だったころの私には、絶対にできなかったことです。
「それって本当に安全なの?」「ちゃんと清潔なの?」と不安で、 たぶん日本から出ることすらできなかったと思います。

 

モデルプランどおりに進まない。それでいい。

私の完璧主義というのは、「失敗=ダメ」と極端に怖がっている状態でした。

そんなときは、予測不可能な旅なんてとてもできません。

でも子どもは熱を出すし、お腹を壊すし、眠くてぐずる。

歴史的建造物より、プールや公園のほうが喜ばれるのは当たり前。

そんなふうに思いどおりにいかないことも含めて、旅だと思えるようになったら、 ずいぶん気持ちが楽になりました。

実際、旅先で薬局に駆け込んだことで、こんな気づきもありました。
ベトナムでは、薬剤師の裁量で薬を出してくれることが多く、日本よりもずっと気軽に薬が手に入ります。

後で調べてみたところ、これは医療制度の違いが関係しているようでした。
ベトナムアメリカでは医療費が高かったり、病院の数が少なかったりするため、薬局で薬をもらえる仕組みが発達しているのだそうです。
一方、日本では保険制度が整っていて、まず医師にかかることが前提。
医師の診察がないと出せない薬が多く、薬剤師の権限は比較的限定されています。

旅先でのこんな小さなできごとから、国の制度や文化の違いを体感できるのも、子連れ旅の面白さだと感じます。

我が家は、天気や子どもたちの体調・ご機嫌を見ながら、 当日までざっくりとしか予定を決めません。 その日その日で調整しながら、「これでよかったね」と思える時間をつくっています。

モデルプランどおりにはいかないけれど、 そのぶん、思い出深く、濃密な旅になることも多いのです。

トラブルも含めて楽しめるようになると、 子連れ旅は、自由で、学びに満ちた時間になります。

「こだわり」をゆるめるって、 不安の中に、ちょっと足を踏み出すことなのかもしれません。

その一歩が、私たち親子にとっては 世界をひらく力になってくれました。

 

無理に「こだわりを捨てる」必要なんてない。

誤解してほしくないのですが、
私は「全部ゆるくしよう」「細かいことは気にしないほうがいい」と言いたいのではありません。

自分にとって大事な“こだわり”は、絶対にある。
それを無理に否定したら、逆に苦しくなると思います。

だから私は今、「こだわりを残しつつ、許せる幅を少しずつ広げる」ことを意識しています。

そのおかげで、片づけも進むようになったし、旅の自由度も格段に上がった。
そして、自分らしさを保ちながら、人生の選択肢を増やせるようになりました。

行動力の土台は、「失敗しても大丈夫」という安心

こうした価値観の転換は、私ひとりでできたわけではありません。

私のコンフォートゾーンをこじ開けてくれたのは、夫の行動力でした。
あまりに計画を立てず、あまりに大胆で、最初はしんどいことも多かったけれど、
そのおかげで、私はたくさんの場所を見て、たくさんの学びに出会ってこれました。

「失敗したって、何とかなる」
「予定どおりにいかなくても、大丈夫」

そんなふうに思えるようになったことが、私にとって一番の財産かもしれません。


最後に

あなたにとって、「絶対に譲れないこだわり」はなんですか?
そして、「ちょっと広げてみたら、できることが増えそうな部分」は?

無理に捨てなくていい。
でも、もし少しだけ幅を持たせられたら、人生の可能性は確実に広がります。

片づけも旅も子育ても、行動力も。
あなたの「ちょうどいい許容範囲」を、一緒に探していけたら嬉しいです。

 

ここまでお読みいただきありがとうございます。
片づけや旅、発達障害のことなど、このテーマについてご質問や感想があれば、ぜひお気軽にコメントくださいね。
ブログも定期的に更新していますので、またのぞいていただけたら嬉しいです。

【孤立の力とつながりの希望】──ベトナムで見た“歴史の痛み”と、発達障害のわたしが語れること

「歴史から自分の生き方を考える時間」

今回の記事は、「旅先の記録」というよりも、「歴史から自分の生き方を考える時間」の記録です。
ベトナム戦争証跡博物館を訪れたことをきっかけに、孤立・感受性・発達障害というテーマと、自分自身の感覚を重ねながら考えました。
わからないことも多いけれど、だからこそ丁寧に向き合ってみたいと思ったことをまとめています。

「歴史に興味がある」「旅が好き」。 それは、子どものころからずっと変わらない私の軸です。

そして今回、家族5人+犬を抱えながら、どうにか工夫を重ねて実現したベトナムの旅。
それは、ベトナム戦争の記憶、植民地支配の跡、市井の人々の顔と向き合い、「孤立」「声をあげること」「違和感の力」について、あらためて考える機会となりました。


なぜベトナムへ?──家族旅行という枠を超えて

5人家族と1匹の犬を抱えた私たちにとって、海外旅行は贅沢と紙一重です。

けれど今回は、私にとって「人生で一度は訪れたい場所」でした。

ベトナム戦争の記憶、フランス植民地支配の歴史。

そのすぐ隣に、今も生きる人びとの笑顔、祈り、屋台の匂い、バイクの音、やさしい時間が流れていました。

私は、ガイドブックの中ではなく、現地で“自分の感覚”としてその空気を受け取りたかったのです。

 

 


ベトナム戦争証跡博物館で出会ったもの

訪れたのは、ホーチミン市にある「ベトナム戦争証跡博物館」。

そこには、爆撃の記録や枯葉剤の影響、捕虜の写真や、市民の声なき声が、無数に展示されていました。

そして、そこから色々調べていくうちに、クメール・ルージュについても理解を深めることができました。

カンボジアで実際に起きた大量虐殺──それは「どこか遠くの国の話」ではなく、同じように空気が変わり、人が壊されていく構造が、歴史の中で繰り返されてきたことを示していました。


発達障害の私が感じる“違和感”の力

私は、いわゆる「空気を読む」のが苦手な発達障害当事者です。

周りがどうであれ、「そもそもどうしてそうなってるの?」「なぜそうしなきゃいけないの?」とついつい考えてしまいます。
自分の頭で納得できないことは、違和感として残り続けてしまいます。

歴史のなかで、空気が少しずつ“狂っていく”場面が何度もあった。違和感に気づいた人はいたはずです。でも、声をあげるには勇気がいりました。

私たちの特性は、社会の中で「やりづらさ」になることも多いけれど、 この“違和感センサー”は、過ちを止める力になり得るのではないか──そう感じました。

 

空気を読まないことが、平和を守るセンサーになるかもしれない

発達障害を持つ人たちは、ときに「場に合っていない存在」として誤解されがちです。 でも逆に言えば、「場に馴染みすぎない」ことで、危うさに先に気づけるのかもしれない。

それは、歴史の中でも、今の社会でも、必要とされている力ではないでしょうか。

「孤立の力」──このタイトルに込めた二つの意味

今回のタイトル「孤立の力」には、実は二つの意味を込めています。

ひとつは、孤立が人を壊してしまうほどの“負のちから”としての側面。

もうひとつは、孤立のなかにいるからこそ芽生える“感じる力”や“違和感に気づく力”としての側面です。

歴史をふり返ると、孤立した人びとは、声を奪われ、狙われ、壊されていきました。

けれど同時に、そうした孤立のなかでしか生まれなかった問いや感性が、誰かを救った例もある。

この文章のなかで、私が語っている「孤立」とは、壊す力でもあり、守る力でもある── その両方に触れながら書き進めています。

 

孤立の怖さと、「つながり」が守ってくれるもの

戦争の説明のなかには、密告や孤立、分断の怖さも描かれていました。

誰もが誰かを恐れ、信じられなくなることが、どれほど人間を脆くさせるか。

それを見て、私は思いました。 「孤立」は、いじめや暴力や差別を引き寄せ、人を壊す。

だからこそ、「つながり」は、武器ではなく、盾になるのだと。

私たちが「誰かと一緒にいる」「共感しあえる」ということが、暴力を防ぎうるのだと。

 

私の旅は、語る意味があるだろうか

旅行をすること自体、「自慢」と受け取られるのではないかと怖くなることがあります。

でも、今回私は「見て、感じて、考えたこと」を、誰かに手渡したいという気持ちになりました。

これは旅の記録ではなく、「学びと祈りの記録」だと思って受け取ってくださいませ。

歴史の中で、空気に流されず、声をあげてくれた人がいた。

その声がつながって、いま、私たちが語り合えることにつながっている。

発達障害という感覚の特性が、未来の暴力を止める力になったっていい。

感じやすくて、うまくなじまない私たちだからこそ、できることがあるかもしれない。

私はこれからも、自分の目で見て、感じたことをゆっくりと言葉にしていきたいです。

まだよくわからないこともあるけれど、それでも「感じたままを伝える」ことで、誰かの安心や希望につながったらうれしいです。

私にとって旅は、非日常ではなく、「暮らしの延長にある問いかけ」です。
自分の特性を否定せず、そのままの感受性で世界とつながること。
そんなふうに暮らし、学び、伝えていけたらと思っています。

 


お読みいただきありがとうございました。

📖 同じ内容を、noteにも掲載しています。  
文章の雰囲気や感情の流れを味わいたい方はこちらから:  
https://note.com/juicy_yucca3686/n/n8c823a2580e8