家は味方

ADHD親子の、片付けられる家。

私たちは横にも縦にも分断されている

バグっているのは個人ではなくて、社会かも。

私は片付けを仕事としており、日々、モノやゴミの中で身体を縮めて眠るしかない方々のサポートをしています。

その現場に立ち続けるなかで、ずっと胸を締め付けられるような違和感がありました。

なぜ、これほどまでに多くの人が「片付けられない自分」を責め、罪悪感と恥のなかで孤独に苦しんでいるのだろうか。

結論から言えば、彼らがだらしないからでも、努力が足りないからでもありません。

本当は、私たちの社会の構造(システム)の側がバグっているのではないでしょうか?

そして、そのバグの本質は、私たち住民や家族が「横にも、縦にも、投資(統治)の道具として緻密に分断されている」という事実にあります。

【横の分断】「持てる者」と「持たざる者」を監視させる罠

いま、世間ではエシカル(倫理的)やエコ、丁寧な暮らしが一種のステータスになっています。

「正しく分別して手放せること」が新しい教養であり、上流階級の記号のようになっているのです。

しかし、実行機能の低下(ADHDなどの脳の特性、うつ状態、高齢化による認知機能の低下)を抱える人々にとって、細かなゴミの分別、手放す判断はエベレストに登るほど高いハードルです。

 

ここで社会は、残酷な「横の分断」を仕掛けます。

エコや分別の現場で:

余裕があって完璧に分別し手放せる層と、心身の限界でそれができないグレーゾーン層を分断します。

そして「分別しないなんて信じられない!」とお互いを監視・批判させるのです。

あっちを見れば「手放せ」。こっちを見れば「モッタイナイ」。

一体どっちに従えばいいの?って迷って当然です。


手のひらの上のSNSで:

SNSのアルゴリズムは、巧妙に「自分よりちょっと上の生活」をタイムラインに流してきます。

人々に終わりなき嫉妬を煽り、「もっと買わなければ」「もっとちゃんとしなければ」という欲望をハックし続けます。

住民同士が「マナーや意識の高さ」や「暮らしのキラキラ感」でお互いをジャッジし、殴り合っている間、「そもそも分別の負担を個人に丸投げしているインフラの怠慢」や「使い捨てのモノを大量生産し続ける資本主義のグロテスクさ」という真の元凶からは、完全に批判の矛先が逸らされています。

 

【縦の分断】最も温かいはずの「家族」すら引き裂く歴史のバグ

横の分断以上に悲劇的なのが、世代間で起きている「縦の分断」です。

本来、家族という場所は、外側の社会でどれだけ傷ついても「あるがままの自分」を認め合い、生身のままで承認欲求を満たし合える、唯一の安全なシェルター(隠れ家)であるはずでした。

しかし今、その家族のなかで、壮絶な分断と衝突が起きています。

典型的なのが「実家の片付け」を巡る親子間の骨肉の争いです。

 

溜め込むシニア世代(トラウマ型):

戦後の物資不足を生き抜き、高度経済成長を支えた親世代にとって、モノを豊かに持つことは「飢えへの恐怖」に対する防衛本能であり、幸せの証でした。

だから彼らは、包装紙一枚すら「モッタイナイ」と手放せません。


ミニマルな若者世代(ハック型):

生まれたときから24時間、天才マーケターたちに欲望をハックされ、過剰消費の濁流に溺れ、狭い間取りと高騰する家賃のなかで「ミニマリズム・タイパ・コスパ」を求められて生きる世代です。

若者は親のモノを「スペースの無駄、コスト」と切り捨て、親は若者を「薄情で、モノを大事にしない」と非難する。

 

どちらも、その時代ごとのシステム(国や資本)の都合のいい消費者としてハックされながらも、そのなかで必死に家族を思い、生き抜いてきた「当事者」なのです。

それなのに社会は、彼らを家族の中で戦わせ、「片付けられないのは個人の問題(自己責任)」として処理してしまうのです。

 

私自身の葛藤:私もこのシステムのなかにいる

誤解しないでいただきたいのですが、私は決して、この分断の外側にいる「聖人」でもなければ、ボランティアで誰かを救おうとしている正義の味方でもありません。

片付けはかなりの肉体労働です。

だからこそ私は、仕事として対価をいただいて現場に入っています。

だけど、だからこそしんどいのです。

このバグだらけのシステムの中で、限界まで追いつめられ、身を縮めている人からお金をいただくとき、「私自身もこの残酷な仕組みの中で利益を得ている、共犯者の一人ではないか」という強い罪悪感に襲われることが何度もあります。

誰もがこのシステムに巻き込まれ、傷つき、加害者であり被害者になってしまう。

だからこそ、個人の心をお説教で変えようとするのではなく、社会の仕組みそのものを変えたいのです。

 

ゴミを細かく分ける前に、人を社会から「分けない」

国家や資本という支配システムは、犠牲者同士が「横」や「縦」で身内戦をしてくれている間は、自分たちに牙を剥かれることがないため安泰です。

これが歴史上繰り返されてきた「分断と統治」の正体です。

私たちは、社会から身を守るためにブランド品や丁寧な暮らしという「モノ(記号の鎧)」を必死に買い揃え、部屋を埋め尽くし、最後はその片付けや分別ができずに孤立していきます。

片付けの現場にいるからこそ、私は声を大にして言いたい。

「あなたのせいではない」

私たちはもう、誰かが作った「正しさ」の物差しで、お互いをジャッジして分断し合うのをやめませんか。

SNSのヤキモキさせる嫉妬からも、家族のすれ違いからも、一歩外へ出てシステムを眺めてみませんか。

ブランド品やエシカルという「記号の鎧」を着込まなくても、私たちは、ただそこに存在しているだけで素晴らしい。

ゴミを細かく分けることに血眼になる前に、人を社会から、そして家族から「分けない(孤立させない)」温かい仕組みを、社会の側がつくるべき時が来ていると思います。