- 「全員一緒の家族旅行」をやめて、香港で「本当の自由」を解剖してきた話。
- カプセルと笑顔の兵馬俑──「普通」を擬態するコスト
- 人間をシステムに最適化させる都市計画。
- ビクトリア監獄──「移動する民」への弾圧と見えない壁
- 人を変えるな、環境を変えろ──令和の『洗冤録』として
- 新しい時代のプリンセス──自分にできる魔法で
- 過去の、擬態に疲れていた私へ。そして、今も部屋の片隅で「自己責任」という濡れ衣を着せられて泣いているすべての当事者へ。
「全員一緒の家族旅行」をやめて、香港で「本当の自由」を解剖してきた話。
そもそも家づくりの目的は、「怒らない」ことでした。
ADHDの診断を受けた私と息子。
世間が押し付ける「良妻賢母」や「標準的な間取り」をそっと解体し、個人の努力(根性論)ではなく「構造の力」によって、みなかみの豊かな水のそばで暮らすようになって5年。
私たちの「小さな革命」は、今もう一つの常識を解体しようとしています。
それは、「家族旅行=全員で、常に一緒に行動しなければならない」という、世間が作った「美しい家族の記号」です。
今年、私たちは家族の年齢と興味に合わせて、別行動をすることに決めました。
夫は息子2人を連れて10日間のカナダ&シアトルへの男旅へ。
そして私は、実母と二人で、ポーランドへの巡礼旅へ。
3歳児を連れて博物館を巡るのは、お互いに不幸でしかないから。
その代わりに、去年の冬、私たちは家族全員で、3歳の娘が100%主役になれる場所──香港ディズニーへと旅立ちました。(その後の街観光は完全に私の趣味だけど…)
そこで私たちが目撃したのは、単なる観光地の景色ではありませんでした。
それは、世界で最も過密な都市の底に眠る、「人間を管理・記号化しようとする世界のバグ」と、そこから「個人として生きてやる」と抗い続ける人間の圧倒的な生命力のドラマでした。
記録を、ここに残します。

カプセルと笑顔の兵馬俑──「普通」を擬態するコスト
香港ディズニーランドという、高度なシステム工学によって100%安全にサニタイズ(消毒)された「光のユートピア」を家族みんなで楽しんだあと、私たちはアジア最先端の美術館「M+」へと足を運びました。

そこで私の脳のセンサーが激しくエラーコードを吐き出したのは、1960〜70年代の日本の建築家たちが提唱した『カプセル・メタボリズム(新陳代謝)』の展示でした。
未来のライフスタイルとして描かれた、四角い最小限の箱。

映像のなかで流れるカプセルの暮らしを見て、私は「あんなおうちじゃ、私、死んじゃう」と恐怖を覚えました。
それは、高度経済成長期という戦場へ向かう企業戦士たちを、24時間効率よく管理するための「使い捨ての格納庫」に他ならなかったからです。
人間をシステムに最適化させる都市計画。
昭和の家電ポスターが掲げる「ひろがる人間らしさ」というコピーの裏で、企業は大量の在庫を個人宅へと流し込み、個人の家を「倉庫」に変え、母親たちに「良妻賢母」という属人化したワンオペの呪縛を強要してきました(でも企業は悪者ではないよね。そういうシステムなだけ。)。


美術館の檻のなかに並ぶ、目を閉じて狂ったように大口を開けて笑う等身大の彫刻たち(岳敏君)。


彼らは、システムの前で感情を奪われ、「健全でハッピーな従順な市民」という記号を完璧に演じるために笑い続けている。香港以外の現代人の姿にも重なります。
自分を必死に『普通』に見せようとするコスト、時間もお金も精神力も、ひどいよね…。

かつてデパートで服やコスメを買い漁り、貯金ゼロで「普通」を擬態しようとへとへとになっていた過去の私の姿が、その冷たいアートのグリッドのなかに重なって見えました。

ビクトリア監獄──「移動する民」への弾圧と見えない壁
次に私たちが訪れたのは、イギリス植民地時代の刑務所をリノベーションした文化施設「大館(タイクン)」でした。

そこで出会ったのは、中央の1点からすべての独房を100%管理・監視する悪魔の間取り「放射型監獄(パノプティコン)」。

支配者は常に、民衆が、そして弱者が「自由に移動すること」を嫌い、恐れます。
1980年代、この監獄の冷たい壁の内側に閉じ込められていたのは、ベトナム戦争の地獄から自由を求めて海を渡ってきた「ベトナム難民(ボートピープル)」たちでした。

彼らはただ生きるために「移動」しただけなのに、システムによって「不法移民」という記号を貼られ、身体と精神の自由を剥ぎ取られたのです。
それでも、監獄の壁には、1984年に裁判を待っていたベトナム人が刻んだ生々しい落書き(名前)が残されていました。

それは、「俺は国家の都合になんて屈しない、ここに一人の人間として生きていたぞ!」という、むき出しの尊厳の叫びに見えました。
そしてリノベーションされた監獄の壁が私たちに投げかける、あの深くて重い「問い」の数々は…私の胸をえぐりました。

「この壁の内側と外側にある人生の試練は、私たちが想像するほど違っているのだろうか?」

- 死とは、監禁からの究極の解放なのだろうか?
- 死は、生について私たちに何を教えてくれるのだろうか?
- 悲しみや苦しみがある中で、人はどのようにして人生を最大限に生き抜くことができるのだろうか?

- 刑務所システムは、犯罪を誘発している根本的な社会問題に対処しているだろうか?
鉄格子の内側にある刑務所も。
鉄格子の外側にある、都会の過剰消費のマンションも、満員電車の雑音も、SNSの視線による相互監視も。
人間をシステムのために管理し、普通を強要し、個人の尊厳をすり潰そうとしてくるという意味では、外の世界も等しく「監獄」ではないかしら…
人を変えるな、環境を変えろ──令和の『洗冤録』として
旅の終盤、香港医学博物館で、私は激しい怒りと、同時に絶対的な確信を手にすることになります。
私の胸をフェミニズム的な激怒で満たしたのは、かつて中国の上流階級の女性たちに強要されていた「纏足(てんそく)」の展示でした。
花の刺繍が施された美しい小さな靴。

そのケースの裏に隠されていたのは、骨がグチャグチャに破壊された残酷なX線写真と、「歩行困難」をもたらすという冷酷な医学的合併症の記録でした。


なぜ、こんな残酷なことを「美徳」として女性に強いたのか。
理由は明確です。
女性から「走る、移動する、逃げる」という自由を物理的に奪い、男性社会の都合のいい「所有物(記号)」として家の中に幽閉するためです。
かつてエドゥアール・マネが絵画で暴いた、女性を都合よく記号化する男たちの視線の搾取。
作家コレットが自ら引きちぎった、身体を締め付けるコルセットの檻。
それらすべてが、この纏足の骨の変形と一本の線で繋がっていました。
けれど、医学の歴史の底には、その「根性論(苦痛の強制)」というハラスメントの呪文から人間を解放しようとした、天才たちの反骨の歴史もありました。

身体の激痛を排除した「麻酔」の発見。
談話によって心の澱みを紐解いたフロイトの「談話治療(talk therapy)」。

そして、13世紀の中国で出版された、死者の無実の濡れ衣をロジックで洗い流すための世界最古の検死マニュアル『洗冤録(せんえんろく)』。

これを見たとき、私は自分がライフオーガナイザー(CLO)として、お客様のパンクした部屋の床の上でやっていることの意味を理解しました。
社会のバグだらけの欲望ハックや間取りのせいで、毎朝パニックになり、探し物をし、自己責任の刃で「だらしない」と濡れ衣を着せられてきた当事者たち。
彼らに対して、「気合いで片付けなさい」と麻酔なしの手術のような根性論を強要するのはただのハラスメントです。
やっぱり人を変えるんじゃなくて、環境を変えたい。。

"The word 'autopsy' means to 'see for oneself'."
(解剖[オートプシー]という言葉の語源は、『自らの目で確かめる』という意味である)
世間(システム)は、部屋がモノで溢れてパンクしてしまった人に対して、「だらしない」「怠けている」という、中身のない「ラベル(呪文)」を貼り付けて、本人に罪悪感を背負わせます。
私たちCLOがやっている「解剖」は、その世間が用意した嘘のラベルを一切信じず、部屋という名の肉体の「内部構造(動線、間取り、モノの堆積の地層)」を自らのメス(ロジック)でバラバラに開き、「本音のところ、ここで一体何が起きているのか?」を自らの目で確かめる(See for oneself)行為に感じます。
誰かを自己責任で責めるのではなくて、片付けを社会課題として扱いたい。
個人で解決できる人もいる。でもみんなそうではない。
構造を変え、新しい社会をデザインできたら…
新しい時代のプリンセス──自分にできる魔法で
香港という街は、過密で、競争が激しく、格差の激しい、生きるのが本当に大変そうなシステム社会でした。
けれど、そこに生きる人々は、最高にタフで、あったかくて、尊敬に値するエネルギーに満ちていました。
最終日の朝、私たちがアジア最高峰 of 最高峰の知性が集まる「香港大学」の学食を訪れたときのこと。

学生証が必要だと知らずに困っていた私たちに、一人の素敵な女性の学生さんが「私のカードを使っていいよ」と、システムの壁を軽々と超えて学生証を貸してくれました。
その空間のなかで、ベースとなる安心感に包まれた息子たちはいつも通りZ会のノートを開き、「なんか良い気分!」とのびのびと勉強していました。
あの優しいお姉さんに本当に感謝!

そして、この旅の本当のクライマックスは、3歳の娘が放った一言でした。
当時アトピーで真っ赤だった5歳で「私には王子様は来ない(既製品のハッピーエンドのレールには乗れない)」と確信していた私が、香港ディズニーで娘にエルサのドレスを着せてあげられたこと。
まずそれがどれほど嬉しかったか。

さらに。ふと娘に「プリンセスってなぁに?」と聞いたとき、娘はきらきらした目でこう答えました。
「プリンセスはね、自分にできる魔法で、人を助ける人なんだよ!」
私の時代では、「きれいなドレスを着て、かっこいい王子様に守られる受動的な存在」だったプリンセスの定義が、3歳の娘のなかでは、自らの力で城を建て、大切な人を守る自立した存在へと、完璧にアップデートされていたのです。
時代も、価値観も、定義も変わっていく。
「普通」の擬態コストをゴミ箱に捨て、自分にできる魔法(環境のハック)を使って家族の尊厳を守り続けている私の背中を、娘はちゃんと見ていてくれたのかもしれません…
いや、見ていたのは「FROZEN」です。はい。すみません。
過去の、擬態に疲れていた私へ。そして、今も部屋の片隅で「自己責任」という濡れ衣を着せられて泣いているすべての当事者へ。
本当は、私たちは最初から自由です。
「働かざる者食うべからず」「自己責任」「これが普通」の呪文を解いてみましょう。
システムからの丁度良い距離感を見つけて、自分たちの脳の特性を丸ごと愛して生きていこう。
私たちのそのままで、環境の方を変えてみよう。