家は武器

ADHD親子の、片付けられる家。

隠したければ隠せばいいさ。家族の秘密の取扱い

「信じること」とは

先日拝見した芦田愛菜さんのインタビューに感銘を受けました。

youtu.be

全文引用したいのですが、してもいいのかよくわからず…

前半部分を引用させていただきます。

 

「その人のことを信じようと思います」って結構使うと思うんですけど

その人自身を信じているのではなくて

自分が理想とするその人の人物像に期待してしまっているのかなと感じて

だからこそ人は裏切られたとか期待していたのにとか言うけれど

その人が裏切ったとかいうわけではなくて

その人の見えなかった部分が見えただけであって

見えなかった部分が見えたときに

それもその人なんだと

受け止められる揺るがない自分がいるというのが信じられることなのかなって

 

後半部分もぜひ聞いていただきたいのですが、とりあえずここまで。

私、感動してしまいました。

ちょうど、「信じる」って具体的にどうすることなんだろう、何をしたらいいんだろうって「信じ方」について悩んでいたんです。

芦田さんのお話を聞いて、まさにそうだなと。

 

家族の秘密を知ってしまったとき

以前、家族の秘密を知ってしまったとき私の心がどうなったかというと…

凄く悲しくて、腹が立ってしまったんです。

 

こんなこと、秘密にしなくてもいいのに!

どうして言ってくれなかったの?

他にも秘密があるのかも…信じられない!

 

事あるごとに、ふと思い返したりして、長い間不満に、そして不安に思っていたのです。

時間が経つに連れてショックは薄れて来ましたが、どうすれば不信感が解消されるのか、その気持ちをどこにどうしまったらいいのか、わからないまま時を過ごしていました。

 

私のわがまま

でもこのインタビューを聞いてから自分の気持ちを俯瞰してみると、恐ろしいくらいの自分のわがままがわかります。

 

こんなこと、秘密にしなくてもいいのに!→①「こんなこと」という決めつけ

どうして言ってくれなかったの?→②相手の都合、相手の問題。

他にも秘密があるのかも…→③憶測。

信じられない!→④信じるか信じないかは私次第。

 

「こんなこと」という決めつけ

「大したことじゃないのに!」、もしくは「こんなに大事なことなのに!」と自分では思う一方で、相手にとっては「大したこと」であったり、「そんなに大事なことだとは思わなかった」場合があります。

自分で決めつけた見方で、言わなかったことを責めるのはおかしいのかもしれません。

相手には、秘密にするべき理由があったのでしょう。

 

相手の都合、相手の問題。

①の続きとなりますが、相手が計った事の重大さに合わせて、相手が秘密にするべきと判断したということです。

この時点では相手の都合、相手の問題であって、私が入る隙はありません。

その時の相手の判断も、一旦は尊重するべきなのだと思います。

アドラー心理学でいう、「課題の分離」に当てはまるのでしょう。

ここは、私が変えられない部分なので、そのまま受け入れるしかありません。

「話してほしかったな」という自分の気持ちを無理やり消すことはないですが、「話したくなければ話さなくても良い」と相手に選択肢を与える形=リクエストという形で示すことにします。

 

③憶測

他にも隠していることがあるに違いない!と不安や焦りを感じてしまうけれど、ただの憶測にすぎません。

それが行き過ぎると被害妄想になってしまいます。

真実はどうであれ、わからないことに憶測で動揺するのは冷静に考えればナンセンスですよね。

今わかっていることだけに注目して、対処するべきなのでしょう。

それだけでも一杯一杯なのに、あえてもっと事を複雑にして難易度を上げる必要はありません。

 

④信じるか信じないかは私次第

信じられない!=信じさせてくれない相手が悪い!と責めていますよね。

でも、そもそも芦田さんの言葉の通り、「自分が理想とするその人の人物像に期待してしまって」いただけなんです。

勝手に期待していただけなのに、相手が自分の理想通りの相手になれなかったことを責めています。

その上、信頼に足る材料を集めて信じさせてくれると思うなんて、何様だったんでしょう、私。

そのスタンスでは、例えどれだけ証拠を集めてもらっても、疑いは晴れないと思います。

覚悟を決めて、信じるか信じないか、自分で選ぶしかないのです。

(ここでもアドラーの「課題の分離」を思い出します。)

 

それもその人なんだと受け止められる、揺るがない自分がいるというのが信じられること

↑もう一度、芦田さんの言葉です。

 

自分の理想像を押し付けず、まずは相手と、今わかっていることを、ありのままに見る。

そして、それを受け入れるかどうかを自分の責任で自分で決める。

受け入れられたら、すなわち相手を信じられたということ。

そう私は解釈しました。

 

受け入れると決めたなら

「受け入れられない」と判断して、離れることもできるでしょう。

そうした方がいい場合もあります。

例えば、DVだとか、虐待であるとか、〇〇ハラスメント、本格的な浮気などなど。

自分の命や尊厳を脅かされるような場合です。

 

でもそれ以外だったら?

家族なら、相手がどんな人であっても、受け入れてあげたいものです。

なぜなら、自分も受け入れてほしいから。お互い様なのです。

この広い世界で、どんな自分でも受け入れてくれる場所が家族であってほしいし、そういう家族でありたいと思います。

 

受け入れると決めたなら、相手の課題は相手を信じて委ねたいと思います。

 

隠したければ、隠してもいい。

話したければ、話せばいい。

それを決めるのは、相手。

 

無理やり話させることはできないけれど(相手の課題)、話したいときに話しやすい雰囲気を作ることはできる(自分の課題)。

 

憶測では無駄に悩まず、相手が話してくれるのを待つ。

話してくれたときに初めて、課題を共有できる。

私が手を出して良いのはそれから。

 

私なりの「信じる」ことについての決断です。

ぬかるみを兄弟で協力して脱出したときの写真。

私は手出しできなかった。