恒例の一人旅、ベル・エポック展へ
今、一人旅(一泊二日)の途中です。
今回は、まさに学生時代に勉強していた辺りの展覧会が開かれていること知って、栃木まで2時間ドライブしてきました。
https://www.art.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/t240713/index.html
ベル・エポックについて
国際博覧会アール・ヌーヴォー、世紀末芸術、世紀末、象徴主義、
印象派(ポール・セザンヌ、クロード・モネなど)、エコール・ド・パリ
キュビズム、マルセル・プルースト「失われた時を求めて」、タイタニック号…
これだけ並べても、いかにこの時代が華やかで文化的に豊穣であったかがわかります。
この時代をモチーフに小説を書き、ミュージックホールで踊り子をしたり、同性愛を謳歌したり、数々のタブーを破って奔放な活躍をした小気味よいコレットが私は大好きで、卒業論文で取り上げました。
↓コレットが伝統的な男女関係を逆転させた小説の痛快さについて、ご興味あれば
だからこの展覧会を、学生時代にタイムスリップしたような気分でとても楽しめました。
でも今の私はライフオーガナイザー修行の身なので、ついつい片付けと結びつけて考えてしまいます。
どんな経験も今につながるのだなと実感するばかりです。
マキシマリストがミニマリストやシンプリストになっていく姿と重ね合わせて鑑賞してきました。
人間らしさの最大限
産業革命が進み、パリにはボン・マルシェ(世界初の百貨店)がオープンし、大量消費文化が栄えるようになりました。
ウィキペディアの記述↓
巨大で立派な店舗に毎日客が押し寄せるさまを、作家エミール・ゾラは百貨店をモデルにした小説『ボヌール・デ・ダム百貨店』の中で「消費信者のための消費の大伽藍」(« Une cathédrale de commerce pour un peuple de client »)と呼んだ。
そして、モンマルトルの繁華街では、乱痴気騒ぎ。
(ムーラン・ルージュのフレンチカンカン、ル・シャ・ノワールが有名ですね。)
人々はありとあらゆる娯楽をお腹いっぱい貪りました。
とても人間らしく、憎めない時代です。
飢えて、食べすぎて、見定めるの繰り返し
さて、享楽的に過ごしたあとやってくるのが…例えるなら「胃もたれ」のようなもの。
このあと、様々な分野のデザインや手法がシンプルになっていきます。
有機的(曲線)よりも幾何学的(直線)に、ボリュームをなくしてコンパクトに、ディテールよりも、本質に迫るもの…
女性たちはコルセットから開放され、動きやすい服装でスポーツも楽しめるようになりました。
こうして膨らみすぎたものが削ぎ落とされ、洗練されていったのです。
現代の私たちも、未だに、同じことをしていると思いませんか?
ミニマリストさんたちがおっしゃるのは、必要以上に着飾ることへの疑問、本当にやりたいことのために無駄を省くこと、など。
ベル・エポック後の人たちと同じ発想です。
これって、バブルの時代の反動でもありますよね。
マキシマリストの親世代⇔ミニマリスト&シンプリストの子世代、という構図は
ベル・エポック⇔その後の時代、の構図と似ています。
更に言うなら、どうして親世代がマキシマリストになったかというと、彼らの親世代が貧しく物のない時代だったからこその反動です。
私たちは①飢えて、②食べすぎて、③ちょうどよい量を見定める、このサイクルを歴史の中で繰り返しているのです。
経験しないと捨てられない
ここでわかるのが、私たち人間というものは、ちゃんと経験しないと、捨てられないってことです。
ないときはほしいし、手に入れば入るだけほしいんです。
負担になるほど持つことができて初めて、やっと不要なモノ・コトが何かわかる。
だから手放せるようになる。
ないときは、ないものに憧れます。
持ってもないのに「要らない」とわかる人なんて少ない(いないのでは?)のです。
今ものが多いことはある意味チャンス
今ものが多くて、散らかっていて、うんざりしている方。
自己嫌悪になって落ち込むことはないですか?(かつての私!)
でもそんな必要ないと気が付きませんか?
どうしたって一度持たないと、不要だってわからないんです。
そのときは、必要だったんです。
十分それで楽しんで幸せを感じられたんだから。
「ここまで多いと負担かも」と気がついたときが、チャンスです。
自分が洗練される準備が整った証拠です。
もう一度改めて、どんな暮らしがしたいか見極めて、ものを選び直しましょう。
今のあなたなら、素敵なセレクトができるはずです!
新生活が楽しみですね!