感覚に寄り添うということ
最近、CLOプログラムの勉強会で「感覚過敏」というテーマについて学びました。
日常の音や光、匂いなどに強く反応してしまい、暮らしの中で困難を感じる方がいること。
そのお話を聞いたとき、私はふと、自分の中にもある感覚の波に気づきました。
育児や家事で疲れてくると、普段なら気にならない音が、どうにも耳に残る日があります。
ドアの開け閉めの音。ハンガーを戻すときのカチャッという音。
コップをテーブルに置く音。椅子を引く音。
暮らしの中にある小さな音が、少しずつ積もって、そっと心を削るように感じるときがあります。
そして、私の長男にも、似たような「感覚の鋭さ」があります。
匂いや肌ざわりにとても敏感で、旅先の空港では香水のにおいで気分が悪くなってしまったこともありました。
服も見た目より「触り心地」で選びます。本人にとっては、とても大切な基準です。
私は、こうした感覚を「わがまま」や「甘え」だとは思っていません。
感じ方の違いに気づき、尊重し合いながら、
できる範囲で「感覚にやさしい暮らし」に整えていくこと。
それが家族としてのセルフケアであり、共に暮らす工夫だと感じています。
静けさをつくる道具たち
そんな感覚に向き合う中で、
私自身も、静けさをつくる工夫に目が留まるようになりました。
たとえば、フィンランドで見かけたハンガー&ハンガーバー。
ハンガーバーは木製。ハンガーにはファブリックが巻かれていて、
掛けたり外したりするときも、音が立ちにくいようになっていました。
ある日入ったお店では、金属の買い物かごの取っ手に、
リボンがくるくると巻かれているのを見かけました。
細やかな工夫かもしれないけれど、そこにあるやさしさは確かでした。
アアルト邸で触れたドアの取手も印象的でした。
金属なのに、角がなく、手のひらにしっくりとなじむ形。
感覚に寄り添う「形」が、こんなふうに存在することを、
初めて意識したような気がしました。
音を消す、というよりも、
「感覚を刺激しすぎない」ように、静かに支えてくれるものたち。
そういう道具や素材にふれるたび、
どこか、自分がやさしく扱われているような気持ちになります。
アアルトが設計した「やさしさ」
フィンランドの旅の中で、
アアルト自邸とスタジオを訪れたときのことが、とても心に残っています。
そこには、いわゆる“名作デザイン”として語られるものだけでなく、
使う人の感覚に寄り添うような、さりげない工夫がたくさんありました。
ある療養生活のために、アアルトが設計したサナトリウムでは、
家具や建材の素材が、金属から木材へと変えられていたという話をガイドさんから聞きました。
金属の持つシャープな印象や、清涼感も美しさのひとつ。
けれど、長くふれあう空間や道具においては、
“ぬくもり”や“やわらかさ”が、より深い安心をくれることもあるのだと思います。
パイミオのサナトリウムでも、患者さんの呼吸のしやすさや、心身の快復を考えて、
照明の角度や椅子の素材にまで配慮がなされていたと知り、
「やさしさ」とは、見た目や言葉だけでなく、
素材や音や光といった“感覚”のすべてに通じるものだと、改めて感じました。
気づくことは、セルフケアの第一歩
「やさしさ」という言葉は、ときにふんわりしすぎていて、
何をすればいいのか分からなくなることがあります。
けれど、自分の中にある「ちいさな不快感」や「ささやかな心地よさ」に気づくこと。
それは、感覚にやさしい暮らしをつくる、確かな入り口になると感じています。
外から与えられるやさしさも大切だけれど、
自分の感覚を受けとめ、自分のために整えること。
その積み重ねが、セルフケアであり、
家族や暮らしの中にもやさしさを広げていく基盤になるのかもしれません。
次回予告
次回は、「だらける」とは違う、
“意思を持ったリラックス”について綴ってみようと思います。
やさしさの芯にある、
ちいさな「整える力」のお話です。