家は武器

ADHD親子の、片付けられる家。

「私もここにいていいし、チャレンジしてもいい」と思えるまで

前回のブログでは、自分のことばかり考えていた私が、家族を持ったら自分のことを考える暇がなくなったこと。

彼らの関心に興味を惹かれ、自分以外の人の様々な世界の見方や感じ方、知らなかった楽しみ面白さを知ったこと。

そうして自分中心の小さな世界から引っ張り出され、世界は広く、自分はその一部でしかないことを実感したこと。

そんな話をしました。

iewabuki.com

そんなの全く持って当たり前の話なのですが、わかってなかったのですよ。

「知ってる」と「わかる」そして「できる」の間にはそれぞれ長ーい距離があり、私はゆっくりゆっくり進んでいる途中なのです。

そんな私の気付きについて、もう少し続きを書かせてくださいね。

 

「自分が世界の一部でしかない」と実感するとわかること

それはもう、とんでもなく、気楽で自由になれるんですよね。

だってもし世界の中心が私だったら、私は私が属する「女性」「母」「妻」「嫁」「誰かにとってのご近所さん」「誰かにとっての友人」「38歳」などなどのカテゴリーの中の代表者にならなきゃいけないじゃないですか。

凄まじいプレッシャーです。世界代表ですから。

〇〇であるからには「こうあるべき」「こうするべき」「これくらいできなくちゃいけない」そんな課題を自分自身に課して、100点取らないといけないわけです。

 

一方、世界の一部でしかない、小さな存在でしかないとわかれば、私みたいな変人が一人いたところで世界には何の影響もないし、誰も困らない。

相手にされないどころか気づかれない。

誰かにとって私は星の数ほどいる「女性」「母」「妻」etc…の中のひとりだから。

 

だからこそ、こんな私がここにいてもいい。

色んな人がいるんだから、私がいてもいい。

自由に自分の好きな目標を設定して、自分が満足できるように、楽しみながら進めば良い。

そんなふうに思えました。

一枚の紙の上の時計のクローズアップ

「どうあってもいいし、どんなふうに幸せになってもいい」

「こんなダメな私は死んだほうがいい」と思ったこともありました。

でもたとえ死んだとしても迷惑かけた人傷つけた人にお詫びができるわけではありません。

私の命にそんな影響力はないからです。

私がどんなふうに生きようが、死のうが、誰も(そんなには)気にしていない。

家族ですら。一定期間悲しんでくれるでしょうが、私が死んでもその後、子どもたちも夫も幸せになれると思っています。

 

だからこそ、「自由に生きてもいい」と考えています。

死んでも誰にも何にも影響を与えられないんだから、死んでも仕方ない。

そう考えると、悔しいから生きてやろう!と逆に思えませんか?

 

迷惑かけた人、傷つけた人には生きて、「行為」で返すだけ。

バカにされても、自分が「バカじゃないと思える自分」になればいいだけ。

その人たちと今はもう離れているなら、目の前の人たちに同じことをしないだけ。

ダメで、下手くそな私でも、ご機嫌でいつも幸せに暮すだけ。

 

子どもたちにも同じように、色んな人がいて、色んな生き方があるんだから、「どうあってもいいし、どんなふうに幸せになってもいい」と伝えています。

ただし、とにかく、死んでも意味がないと。

失敗する人も星の数ほどいる。だから、チャレンジしてもいい。

チャレンジできない理由は色々あるとは思いますが、一番大きい理由は、失敗が怖いからではないでしょうか。

私はそうでした。

 

  1. 失敗したら恥ずかしい…
  2. やってしまったら後戻りできない…後悔するかも…
  3. まだまだ準備不足だから…

 

もう一人の私はこう言います。ちょっとお待ち下さいよ、

  1. 誰もあなたのことなんか見ていません。失敗する人も星の数ほどいます。だから恥ずかしくないです。
  2. 後戻りして何をやり直すのですか?後戻りするより、失敗して学びもう一度何かするほうが、よっぽどより良い結果になるのでは?もともと大した人生じゃないんです。「こうした方が・こうしなかった方がより良かった」と感じたとしても、大した差じゃないです。死ぬまで、一つでもたくさん経験して、楽しく暇つぶししましょ。
  3. 準備に完璧な終わりはないので、そのままだと一生準備するだけで終わっちゃう。緊張しても落ち着いてこなせるレベルに準備ができたらとりあえずやってみて。やってみたら、意外とこここまで用意しなくても良かったとか、逆にこれが足りなかったとわかる。それからもう一度。そして何度でも。

星空の下の水域に緑の葉の木

お茶目に生きる

私は偉大な人物でもなんでもなく、いち微生物的な存在。

だからこそ、こっそり自由気ままに楽しく人生を右往左往上り下りしていたいです。

おしまい。

棚の上のぶち猫